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ツイッターに書ききれないことの保存場

人文学の視座

人文学徒としての私があとで見返すための文字起こし。私は動画で知識を得ることが苦手な人間なので、文字であとで見やすくしてたいがための行動です。

イスラエルによるパレスチナへのジェノサイドに関して、京大で行われたシンポジウムで岡真理先生の発言部分で全人文学徒が読むべき内容の書き起こし。

動画 核心に到達するまでに特に人文学徒が心得なければならないこと、30分40秒あたりから。

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(私たちの社会が殺したウィシュマさんのことから、)ヨーロッパにおけるユダヤ人の死と ウィシュマさんの死は繋がっています。
ナチスドイツの時代において、ナチス支配下の地域では、ユダヤ人というラベリングは、そのように呼ばれたもの達に対して何をしてもよいということを意味しました。
100年前の日本ではそれが朝鮮人でした。
誰かを朝鮮人と呼びさえすれば、それは殺しのライセンスとなりました。
2001年9月11日以降、それはテロリストでした。
アメリカのグアンタナモ収容所では、テロリストの嫌疑をかけられたものたちが、国際法も国内法も適用されない法外な場に置かれました。
今、ガザに関してそれはハマスです。
ハマスが」と言いさえすれば、パレスチナ人に対して何をしてもいい。
そして日本では、非正規滞在の外国人がそれにあたります。
ジョルジョ・アガンベンの「剥き出しの生」に還元された人たちです。
私にとって人文学とは、歴史や世界をみるこのような視座を与えてくれるものです。
私たちが歴史や文学や哲学や人類学やその他の人文学を学ぶのは、私たちがそのようなパースペクティブでこの世界の歴史と世界をみるためだと思います。
参政権を持つつ日本国家の構成員である私が、イスラエルによるガザのジェノサイドとその影で豊かな生活が進行している、すざましい民族浄化の暴力について批判するとき、この日本という国が、植民地戦争において、中国で朝鮮で台湾で脱植民地化のために戦うものたちを、すざましい暴力で殲滅してきたということの批判なしに、あるいは、植民地支配のために被植民者の監視管理に起源をもつ入管法よって、今、非正規滞在者が人権の番外地におかれ、毎年のように入館の施設でなくなっているという事実を批判することなく、イスラエルを批判することはできません。
第二次世界大戦中のドレスデン爆撃を上回るというガザに対する爆撃や砲撃を前に、日本人が想起するのがゲルニカや広島長崎あるいは東京大空襲だけであったらなら、私たちはこれを批判する資格をもちません。
広島と長崎に対する原爆による大量殺りく、そして一晩で広島の1945年12月末までの被爆死に匹敵する市民を殺した東京大空襲に先立って、日本が敗戦するまで中国の重慶に対する戦略的な都市爆撃を行っていたという事実が想起されなければならないはずです。
すべては繋がっているのです。
しかし私たちはそれを知っているでしょうか。歴史の授業で学んでいるでしょうか。
植民地主義という言葉も日本がかつて台湾や朝鮮を植民地支配したというこを確かに歴史の授業で学びますが、それは単なる言葉に過ぎないではないでしょうか。
植民地支配という暴力が、支配されるものたちにとって、いかなる暴力であったのかということを私たちは学んでいるでしょうか。
ゲルニカについては知っていても、はたして私たちは重慶の爆撃について知っているでしょうか。
10月7日のパレスチナ側の攻撃に対して、民間人の殺害や拉致ということが語られますけれども、わたくしはパレスチナ民族浄化して難民となったものたちをガザに閉じ込めて、彼らが住んでいたその村の後にそれを破壊して作った器物、それはイスラエルによる地上攻撃に際して前哨基地として使われる純軍事施設です。
そこで住んでいる者たちというのは、軍事訓練を受けて武装しており、いつでも戦闘に携われる、そういう前提で生活している植民者が、果たして民間人として戦闘員とは区別されるというそれを無条件に受け入れるということに対して、
私は例えば、満州に入植した日本人が果たしてそのとき満州で果たした侵略的な役割というものを考えるならば、倫理的な躊躇をおぼえざるをえません。
すべての知を与えてくれるのが人文学であり大学で人文学の研究教育に携わるというのは、そのような知を、世界のまなざし、そのよな歴史的今日的示唆を若者たちに養う、ということだと私は考えます。
こうした歴史的視座なくして、私はアジアの平和も世界の平和もないと思います。
…(これは中東研究や政治学者の話だけではないという趣旨の話。略。)
日本の植民地支配がなければ霧社事件もないし、アパルトヘイトがなければハマスの攻撃もないし、そもそもハマスすらもない。
人文学を学んでいるものが、今回のガザの事件と自身の関心領域があくまで接続されないままであるならば、それは人文学者自身がみずからの学問に死を宣告しているに等しい。